[HOME]

Zatsubunroku

** Update 2011-08-08 **

title
●最初の記事は→こちら。 このページは管理人の雑記帖というかたちで、日記ほど定期的ではなく 思いついたあれこれを記録しています。ブログの草稿や、単なるメモもありますから時には不快に感じられる読者も おられるかも知れませんがご容赦ください。引用などで、不都合な場合は掲示版かメールでご一報ください。即、対処いたします。
タイトルは造語で辞書にはありません。 記事はたぶん新着順です。


25回目■(2011/08/08)
★耄碌爺の忘備録★
脳梗塞で寿命を全うしたつもりが昨今の医療の進化で命永らえ新しい人生を歩む物語、のつもりがどうにも一世一代の秘密を墓まで持って行くことを止め、ひとつここでバラしてしまおうと云う訳。。
主人公は満65才、誕生日から数えて四ヶ月後に、近くに住む三歳年下の実弟の所に明け方近く、車で運転して行ったところ呂律が回らないよと云われ、へたへたと椅子に座り込み救急車で最寄の病院に担ぎ込まれたそうな。

 その時には、これで寿命かとそれにしちゃぁ、やりたい放題をして長生きだったなぁと感無量だった覚えがあるのだが、こればっかしは流石に発病直後は畏れ多いとばかりに一年近く自分の考えは口にすら出来なかったことだ。

 それからは、2〜3日は良く覚えてないのだけれど、ひっきりなしの点滴で右半身は麻痺しちゃうは酷い失語症は掛かってしまうは右顔面の麻痺からくる、油断すると唾液が零れるはで往生したこと、などなど。入院4日目から手足のリハビリテーションが始まって、たまたま其処には言語リハビリの専門家は居なくて、其れでは三重県ではイチニを争そう良い病院をと、たまたま弟の方に繋がりがあった「榊原温泉病院」に転院することになった。

 二週間目のことである。
 
 なんせ車椅子の世話になってのことでベッドからの出入りは看護婦さんの監視のもとで、市が行う介護認定の判断を治療中の病院まできてやってしまう制度のもと、今から考えるとリハビリのせいか治ったもんだわいと思えるくらい健常者に近くなっている。

 ただしリハビリのいう面ではこの数ヶ月、疑問が吹き出ていてどうも納得がいかない。

 ひとつは右手・右足の麻痺、回復期トレーニングと称して日々メニューをこなしていたが、発病2ケ月のある時点で、視力が頻繁にフラッシュする黒内症(?)の症状が見られた為、ステントを血管内に埋め込み狭窄部に血流を増やしてやろうという手術をして頂いたのだが、それはその手術のあと一週間のうちに起こったこと。

 傷跡の養生のためリハビリを休んでおったが一週間後、リハビリを再開して判ったことだが、握力が20kgから30kgと飛躍的に増加したことと脚力はあまり変わっていなかったことなのだ。

 はたして余分なリハビリを行わなかったせいなのか、自然の回復力がそれなりにあったせいなのか判らないが、初期リハビリテーションはともかく回復期は麻痺した筋肉のほうを重点的にトレーニングするとか、これは生半可なことでない。余り希望的なリハビリ効果はなしにして正直に言って欲しいのだ。

 これは現役の頃のアスリートなんかに云えることなんだが、何らかの要因で麻痺した筋肉を回復しようとしてしてトレーンニングに励む姿を想像して見てくださいよ。

 あるいは、指の筋力においては、例えばピアノに向かって一から指使いの訓練をするようなもので、ダイノ大人が叶わぬこと必然なのだ。よって、自己責任。あれこれ弱者の身で吠え立てることはせず、



24回目■(2010/07/28)
★たまにゃぁ世間のことも★
二番手以下ならビリも同じと言い切る孫正義さんは、まさしく狂狷なる賢人に違いないなと、彼の主催する塾の開校式での記念講演を聞いて思ったものだ。 まぁ、彼は所謂「できるしと」の代表みたいなもんで、万民がそうではないのは当然なのだが彼が苛立つ原因の多くがアホな小役人の知恵であったり技術バカの寄り合いが作り上げた制度なのだ。 一部の方だが、あの松下幸之助さんの所業を冷ややかに見て、あれは一種の宗教だろうなどと批判していたものだがそれは現象の上っ面にしか目が行っていない浅はかな見方で精神の自立とは無縁の輩だ。 孫さんもそういった批判を得るだろうと思うが、商売を通してではあるが世の中を良くしようと実によく働いているんだよね、真に実行の方なのだ。 今の政治家やそれを批判する評論家連中を見てみなさい、皆話すばっかりで具体的な行動の一つもありゃしない。時間を稼いでいるというにぴったり。

  今、我が日本の50代以上の人間は文句いいながらも今のままでもイイジャンと思ってるのがほとんどなのかも知れないのだが、このままじゃ駄目になるともみぃ〜んな感じている。 今の20代30代の若者もひょっとしてデフレ不況といいつつも飽食の時代を過してきて、なにを今更面倒な闘争をしなきゃいけないのかと、安穏な日々をずるずる過し、 何事かをなそうという切羽詰った世情でもないようなのだが、そんなんでイイのと問いたいね。

  まぁ覚悟も度胸もないのが一般庶民なのだと言っちまえば実も蓋もないのだが、情けないねぇ。

  数字の上であきらかなのは今のままで20年30年経つと彼らの大半が、悲惨な状況に置かれるだろうなぁとは想像に難くないのだ。 そもそも血を流さずに政権交代なんてのが甘っちょろい考えで、赤字国債の元凶を追い詰めることもせず、国税を食いつぶしてきた輩を野放しにしているのが気に入らないね。 紅衛兵とまでは言わぬが事業仕分けでさらし者になった奴らなどの公職追放くらいはあってもいいんじゃないかなぁ。

  個人情報保護法なんてのをでっちあげ、隠そうとするのが手前の所得だなんてのは噴飯ものだ。それとセキュリティの名のもとに納税者番号に反対だというバカもいる。 いやしくも国民であるなら義務と責任に関する手続きに出生時の戸籍からなにゆえ一貫したIDが付与されないのかこの情報化社会にあって不思議でならない、そんなことで阻害される自由などあるもんか。 昨今、クラウドと称して従来ならばらばらに点在して稼動していたサーバー機能やアプリケーション・ソフトをインターネット経由で集中的に管理運営するのは手間隙やコストを劇的に削減できる構想なのだが拠点を海外に設けるのは 感心できないし、通信障害などのリスク分散という観点からまだまだ工夫が必要だが将来的にはその方向に行くのは間違いない。しかし今でもデジタル計算機・パソコンを活用すりゃぁ事務方のシゴトなんざぁ労務費を半減どころか 9割減だって可能なのだから余った人間を労務集約型のシゴトに回す工夫をすりゃいいのに遅々として進んでいない。じれったいがどうにもね。

  そういえば硬骨漢だと思っていた民主党の仙谷大臣、このところ随分腰の引けた言行が目立つ。菅総理大臣もそうなのだが、あたかもなにか逆らえぬ圧力にでも屈したかのような 歯切れの悪さで、旧悪の自民党との大連立をさえ口にする異常さはただ事でない。体調でもくずしたかそれともお歳のせいか。

  大手マスコミや広告代理店、あるいは大企業もそうだが有形無形の圧力が加わってタブー視している事柄が山ほどあるのは皆薄々感じているのだが、そろそろ命がけの正義漢の一人でも出てきて いいんじゃなのかと無責任に思ったりする。もっとも検察とか警察といった公権力の実行部隊も組み込まれちゃってるから困難なことは想像に難くない、法務大臣ですらあの程度だものね。 ジャーナリズム魂とか社会の木鐸ってのが以前はもっとあったように感じるのだが。

  しかし孫さんも言っていたように人類文明の大革命の端緒に居合わせた幸運を感じずにはいられぬのだが、ガラリと風景が変わるのは多分数百年も先のことだろうなと思いながらも、 その様子を想像出来るだけでも豊かな気持ちになれる。



23回目■(2010/04/19)
★3年ぶりに更新、「生業」★
国の仕組みが変わりつつあってそれはひょっとして150年ぶりの大変換となるかも知れないスリリングなことなのだが、近世の産業構造の変革期同様そこには打ち捨てられるかのような人もたくさん出てくることだろうとは十分想像出来る。 そういったときに必ず出てくる意見に捨てられる人々にも生活があるといった同情論なのだが、不要とされるにはそれなりの分けが有るので命まで取ろうってことじゃぁないのだから変化に感応してもらうしかない、そこはシンプルに判断して間違いないのだと思う。人が自立して生きてゆくというのは生業を持つということにほかならないがおよそ一次産業以外はなにがしかの利便を供与して食いぶちを得るわけで、 巧妙な理屈で創り出した仕事で利を貪るなんてのはもはや許されないのだと自覚しなきゃいけない。企業であれ地方財政であれ国家財政であれ返済の目途がつかない借金となったのは集めたお金の使い方を誤ったということにつきるのだから携わった方々は無条件に万死に値する大罪をおかしてきたわけだ。 少しは生活レベルが向上しただろうとか寿命が延びただろうなんてのは言い訳にはならない。平成22年の今、お手盛りで待遇や仕組みを決めてきた守旧の行政者連中はごめんなさいと謝って他に生きる道をさがしてほしいものだ。 それはひとえに我ら国民がいかに民度が低かったかということの結果でもあるのだが、改めるに遅きはない。行政を生業にするのもイイがまともに仕事しろよと納税者は怒っているのだ。 さらに言えば、50年間たっても出来ないようなダム建設で暮らしを立てていた方々はその資金のなんたるかには思いも及ばなかったのだろうか。


22回目■(2007/04/15)
★久々の更新、「郷原」★
最近になって面白いことに気がついた。 それは自分の思考回路の底流に流れ続けているようで長い間、単に天邪鬼なのではないかと卑下することさえあったのだがいまさらじたばたしても変わることでもないように思いなぜそうなのかをつらつらと考えて見た。 結局のところ自分が「自由」でありたいという欲求が第一にあるため国家とか自治体、団体、大会社、権威あるもの全般に無意識に反撥しているのがおおきな要因であるようだ。。。つづく。


21回目■(2006/12/10)
★白か黒か★
世論を二分するようなことで、ひょっとして人類の命運を決め兼ねないようなことがらが近年存在してきて、その行方がとても気にかかる。
・人工授精や代理母など、人為的な生命操作。
・臓器移植に関する法的歯止め。
・地球環境の破壊にもっとも影響を与えている国々のこと。
・これから地球環境の破壊に参加しようとしている国々。
いずれも一国の決め事ではさして意味なさず、全人類の共通問題なのだと思う。
文明6000年の推移で想像するに、体制としての自由・民主主義というのが最も優れた仕組みであろう。民主といっても共産主義の失敗から 資本主義でのということになるが将来それに変わるものが出るかは可能性が低い。もちろん宗教が入り込んでは駄目ということも。 そして三権分立という制度も考えられる最も公正な仕組みだろうと。
そこで、上記のような問題で突出して従来にないような行為をなさんとする事を止めるには立法によるのだが・・・


20回目■(2006/10/29)
★情報開示、オープン★
最近法律について著作権がらみで 思いを馳せることが多々あります。なにが正しいのか、根源的なことを知りたい一心なのです。人間社会の決め事なので確かに意見を二分するようなこともどちらかを正義としなければ 治まりが就かないのだということも解る。だとしてもだ、この数十年の官ぐるみの不祥事をみるにつけ主権者たる国民をなめきった法律の多いことに驚く。 硬直したイデオロギーからようやく開放されつつあった教育現場を正しく統括すべき文部科学省の水準の低さ、未来への展望の無さはどうしたことか。 厚生労働省や国土交通省、経済産業省、外務省などどこをとってもひどい状態だ。 そして必ず情報の秘匿、隠蔽がある。古来「寄らしむべし、知らしむべからず」と大衆の無知を救わんがため官が率先した 長い歴史があるせいで、『民主主義』こそ人類が到達できえた、かってない仕組みであるということすら理解してない輩が居残っているせいなのだ。 人権という言葉ひとつとっても現在の官の思考は客観的に見ておかしいとういうより考えることをしてないのではないかと思われる。 規制についても同様、今は誰もが良し悪しを判断できる時代だ。特定団体や個人のために利する規制を大多数は可としないのだ。 衆は愚というのは真理ではあるとしても愚挙はもはやしないのですよ。 ときおりかいま見るTVでの東京都知事の定例記者会見。石原都知事は義憤をもってかの職をなされておられるようで言葉の端々にそれが伺える。 そして、記者連中を叱ることも度々ある。我々世代にしても新聞記者というのは知性、理性の代表みたいなもんだったから愚かな質問には苛立つのだろうな。 聖職としてあがめられた教師や医師もなんなんだ。信じられぬほど勉強していない。ライン作業に従事する労働者とまるっきり同じような思考回路をもって なっている。そう考えるのは自由だから師のつく職業には就かないでとお願いするしかないね。


19回目■(2006/04/01)
★音・楽★
本語では「音」と「楽」をくみあわせて「音楽」と称し、ご存知のような使われ方をしているわけですが、 よく云われる、音を楽しむとの捉えかたは少し違うのではないでしょうか。「樂」そのものが古来から 歌舞謡曲全般を指していることもあり、「たのしい」という表現は偏りすぎていると思います。 音楽のみならず、芸能・芸術全般にあてはまることですが、楽しいだけでは受けての感動を誘えません。
心に染み入る音楽の楽しさの度合いは聴く人、一人一人で異なりますが客観的には大きく判別出来るよう にも思えます。
自分が聴く側にたって音楽を楽しむ時、ジャズのスタンダードナンバーによく、こういった、楽しい感じは得られないけれど 惹きつけられて止まないといった作品があるのです。昔はレコードを聴くときにまずライナー・ノーツを隅からすみまで読み 作品の背景などを頭に入れてからというのが習慣のようになっていて、エセ・インテリゲンチャの悲しさでそれが評価の 何割かに影響を与えていたようです。演奏者の人となり、人生とその演奏というのは、当然のことながら因果関係に あるわけで、それはそれなりに意味のあったことであると今でも思います、かなりの確率で。 しかし今では純粋に出てくる音楽のみを耳にして、味わうがごとく評価するようになっています。 誰がということがあまり関心事で無くなっています。そこで、同じ演奏を聴いていてこちらの 精神状態?でまるで違って聞こえてしまうのでこの一文を書いています。 例えば「Fly Me To The Moon」。 サイトにアップしてあるものを演奏(DTMでの)したときには、ブラス楽器の厚い和音を軽快にスイングさせた つもりで、楽しい感じに出来たと思っていたのですが数ヶ月して聴くとこれが妙に暗くというか、しっとりと おちついた感じに聞えるのです。 このサイトの作品群はDTMでビッグバンドのサックスセクション・ソリで「くるおしさ」を表現できないものかとの 試行錯誤の数々なのですが、楽器と同じで修練を積むに従い「音楽」をデジタルで創ることの可能性 は充分あると思えるようになりました。生演奏に近づけるということではなしにです。大いなる野望といったところです。


18回目■(2005/10/07)
★ボヘミアン★
最近、落ち着いて(?)考えることがあるのですが、自分は本当に好き勝手に生きて来たという思いが強くなかなか若い人にえらそうなことを言えません。まわりを見渡すと なんとも世界感が違うのです。これはおそらく幼少のころからの確信犯的な芸術至上主義が根底にあるような気がします。公言するのは憚れますが人類全体の文化的財産ともいえるような 創造をなしえる人には殺人以外の全てが許されても良いのではないかなどと過激なことを思うのです。しかし芸術家は今も昔も非力の最たるものでその庇護者がいないことにはとてもそのような 我侭は通らなかったのですが、近代、民主主義の社会では実態のはっきりしない民主の国家権力がすべての権限を持つので、芸術などに価値を見出すような人間がそこにそうそう存在するわけではありません。 特別扱いなどとんでもないという訳です。いまのネット社会で本当にいろいろな人の意見・考えを知るに付け嫌煙権と同じように芸術の居場所が無くなりつつあります。 JASRAC管理曲の逃げ場所として「ヤマハ・プレイヤーズ王国」というサイトを利用させて頂いているのですがそこの掲示板の書き込みや、たまに覗く「2チャ○ねる」どを見ると、いやはや自分の思う音楽ファンとは程遠い 社会正義を皆さん述べられていて、「つまらない」の一言につきます。きまりを守るだのエチケットだのこんな人たちが本当に音楽を作るの?と不安になります。過激なところがこれっぽちもない。 自分はなれなかったのですが「芸術家」には全てを許したいということと、みなさんは芸術家にあこがれません? ありきたりの芸能人はべつですよ。それとも芸術家といえども一般市民とおなじく共通の常識を持って社会生活をしなければいけませんと言いますか。


17回目■(2005/10/07)
★ブロードバンド・自宅サーバー★
長野県に2ヶ月間ほどの出張ということで、経費節減を考え、アパートを借りてみました。何十年ぶりかで一人で住む場所が出来たのは なんとも新鮮な感じです。炊事・洗濯は生まれてこのかた、経験が無いので家具、什器、寝具などはなにも必要なく最低限使いそうなものを 車に乗っけてゆきました。そこは「Bフレッツ・マンションタイプ」導入済みと張り紙があったのでさっそく既加入プロバイダの空IDでNTTさんに 回線登録お願いし、IP電話込みで月額2,800円くらいで、従来のように電話債券の新規購入やレンタルは不要なのです。終端装置の工事費は 止むをえないとしてもかなり安価になっています。入居してすぐNTTさんの工事が終わり早速、ルーターの設定です。これはもう得意のことですから機器を問わずすいすいと 進み、いざ接続で、、、これが出来ない。あれこれ1時間ちかくやっていてやっとIDの間違いに気が付き解決しました。手帳に控えて来たIDが申し込みのものでなかったのです(涙)。 早速テスト、25〜27Mbps出ているのを確認できました。マンションタイプは8回線で100Mbps1本なのだからもっと出ても良いように思うのですが。 持ち込んでいるノートPC2台を早速サーバーとしてセットし、自宅、会社、仕事先事務所のそれぞれからアクセスできるようにしました。これは覚えてしまうと実に簡単、短時間でできることなのですが あまりやっている人はみかけない。ナローバンド(つい2年くらい前)のころはほとんど子供の遊びみたいなことでしたが国内通信インフラが整備されると皆に便利なしくみとなります。 そんなことしている間になぜか自宅のサーバー機が2回もフリーズしていて留守をあずかる家人にリセットをお願いするはめに。最近はとみになれてしまって、お願いというだけでOKなので楽ちんです。 この自宅サーバーは趣味のサイトとは言え実数で一日50から100人くらいの訪問者があるので個人ユースを超えた責任感のような感覚もありオフ・ラインやダウンに相当気をつけています。 (この記事はブログの原稿にしています。)


16回目■(2005/09/24)
★自由人★
某ブログにも書いたのだが先日、所属する会社で小生と社長の還暦を祝う会をもようして頂きました。同年輩の社長は今の仕事一筋、会社を起こして40年近く 引っ張ってきていて自分がいうのも変ですが、男気あふれるいい男なのです。その席でしみじみと話したことは良くぞこんな身勝手で自由気ままな人間を使ってくれたということなのですが、 いわく、使っているなどと考えたことも無いなどというのですよね。自分にとって幸せだったのは第三の人生かと始めたいまの仕事がじつに面白いことだったことで趣味、遊びを超える興味に満ち溢れていたのです。 それだけに、周りで辛そうに仕事に従事している人をみると可哀想でしかたがない。当人にとっては大きなお世話かもしれないのですが、仕事に面白さを見つけるのが幸せへの鍵ではないかとつくずく思います。 これはどのような仕事でもいえます。嫌なら止めろよというのが持論なのですが、昨今は全てが嫌なので家に引きこもっている若者が多いと聞きます。これはまず戦後教育の失敗の最たるものかもしれません。 責任を感じるとともに、さあどうしたらよいものか。親の責任もさることながら、ここはひとつ教育を仕事とされている方々のお知恵にすがるしかない。現在リベラルな考え方として「社会的弱者の救済」ということが 国家いや人類の全体責任であるとされているが、自助努力しない精神構造を持った人間はどんな過程で生成されてくるのか興味があります。人類4000年来、ある比率で必ず存在するようにも思えるし 生きることに意味も意義も感じることがかなわない青少年というのも一定の割合で発生するのは生物としての人類固有の特性なのだろうか。で、表題に「自由人」と書いたのは自分が自由であると思ったときに 「幸せだ」と感じるからなのです。嫌なら止めろよと人に言っているうちに自分でも嫌なら止める自由があると思うだけで幸せな気持ちになるのはただ単純な性格のせいかな。


15回目■(2005/08/23)
★歌謡曲★
実は私、歌謡曲の中でモダンジャズやクラシックの名演奏に劣らず心引かれるものが何曲かあります。 世に出回っている歌謡曲やJ-POPなるものはまず音楽的感動を覚えることはないのですがこの数曲は別です。 それはかの「美空ひばり」さんの歌う「悲しい酒」、「森進一」さんの歌う同じく「悲しい酒」、「藤圭子」さんの歌う「夢は夜ひらく」、 歌手の名は失念したのですが「弟よ」「思い出ぼろぼろ」、などですがこれはどいったことなのか自分でも不思議でしょうがないのです。 18,9の音楽を始めた頃から歌謡曲とか演歌、グループサウンズの類は大嫌いで蕁麻疹が出るほど受け付けなかったはずなのですが、そういえば クラシクやジャズでも全部が全部感激する曲ばかりでないのだか別段不思議ではないことかも。近年では奄美出身の女性歌手(元ちとせさん)がうたった デビュー曲が衝撃的でした。浜辺で砂金の粒を見つけるようなものです。(出張先ホテルでひとり物思いに浸りつつ書いてます)


14回目■(2005/08/21)
★キャッシュ・クリア★
ホームページを作成してきて、いまだにブラウザのキャッシュ機能の全てが解りません。ページ・ヘッダー部分に「META HTTP-EQUIV="Pragma" CONTENT="no-cache"」を 記入しても、なかなか閲覧側で全てを新規には読み込んでくれません。ブラウザの「リ・ロード/再読込」をおこなってもインライン・フレーム内のコンテンツ(ページ)は更新されないのです(I.Eの場合)。 結局、ブラウザ側PCのインターネット・オプションで「全てのキャッシュのクリア」を実行しないと駄目なのです。これは仕様として善くないのではと思うのですが、どうなんでしょうか。


13回目■(2005/07/24)
★著作権(5)★
引き続き、著作権がらみでJASRACのことを調べていて、その協会会員の構成や徴収金の内訳などいろいろ興味深いことが解ってきました。 平成16年度報告で作曲者の会員は7249人、委託契約をしている出版・レーベル等の法人が2291社ということです。海外の委託団体に関する情報は みつかりません。で、JASRACの運営を推進する協議会理事、評議員さんの顔ぶれをみて驚きました。個人の方は別として評議員に名をつらねる法人の全てが 旧来のレコード会社であったり、出版社なのですよ。これはまずいことです。既得権益の確保、増大をのみ目的とするのはあたりまえだと思いました。ご時世がら IT関連企業が数社でも入っているかなと思っていただけに残念なことです。これじゃぁ、アイデアは出てこない。文芸著作などで広くゆきわたっていた「引用」に関する 取り扱いくらいまで緩やかなものとして、公表された旋律の使用を認めなければ、新たな創作の目をひたすら潰すだけです。音源の違法コピーなどとはまるで違う次元の ことですが。繰り返し言いたいのは、演奏という二次著作に対し商用、非商用ひっくるめて細かな網をかぶせるのは作曲者の名を世に知らしめる障害となるばかりか 後世に残るような作品をも埋没させかねない。「インタラクティブ配信許諾」による徴収金92憶7千万円のうち「非商用」分がいかほどなのかを知りたいと調べています。 商業音楽をささえる多くのアマチュア音楽家に課金などしてかつ、「知的所有権」の認知度を広めねばなどといっている職業音楽家はこの世に存在するのだろうか。 作曲を生業とされている方々は、不当に無断使用され得るべき収入をスポイルされるのを当然良しとはしないでしょうが同時に広く世に広めたい、聴いてほしいという 願いもあるのではないだろうか。それは無償の喜びであると考えるのですが「委託」という制度で今のようなネット上の規制は「当然のとこ」と考え1円でも収入が増えるから 良しとしているのだろうか。救いは現行で、ストリート・パフォーマンスなどにはフリーな演奏を認めているようなのですが、アマチュアのネット上の演奏も似たようなものなのですがね。 過保護や万民のためならざる規制と思えるものには、いつも居心地の悪さを感じます。


12回目■(2005/07/23)
★著作権(4)★
引き続き、著作権につき調べていて、おぼろげに解ってきたことがあります。それは「知的所有権」として人が創作したものということで 「発明、発見」や「著作、造形」といった創作活動の結果生じる「もの」をひとくくりに定義付けかつ論じているきらいがあります。 ようするに近世の技術的産物である「特許」などと、古来より想像を発端とする「音楽」をあたりまえのように同一視しているのですね。 それで一様に、所有権、財産権、人格権などと定義付け、創作者にたいして独占権を与えているのですね。違和感を感じる 原因はそのあたりにあるようです。急に「音楽」がまずしく思えてきた。


11回目■(2005/07/16)
★著作権(3)★
著作権につき調べていて、どうにも明確な判断が出来ないものに著作者人格権のうちの「同一性保持権」があります。 美術品や文章、詩、映画などについては事例・判例もあり見当がつくのですが、音楽(旋律)は曖昧模糊としてどのように適用されているのか さっぱり解らない。まずもって、同一性を比較する原作(曲)は、楽譜なのか録音された音源なのかがはっきりしない。JASRACで 管理している楽曲は200万くらいあるそうだが、それらはすべて音源としてレコードやCD,DVD,テープなどで販売・公開されたものだろうが その「隣接著作権」は理解できる。そして曲の「著作者人格権」は譲渡不可で財産権ではなく著作者本人にのみ固有の権利として あるもので、作品が創られると同時に無条件で付与される権利であるというのも解る。ここではその曲の実体が問題で、現行法規では、JASRACの許諾を得てなにがしかの 金銭を納めれば、好きなように使えるようですが演奏は10人十色、同一性の判断などしようがない。「常識的にみて著しく改変がなければ」 などという基準はなんなんだろう。4分の4拍子の曲をワルツで演奏したり演歌を弦楽四重奏で演奏したりはその都度作曲者に御伺いしなさい ということか。JASRACさんでは「著作者人格権」の判断はしませんといっている以上、そうなる。商業公演の演奏や人気歌手のカバー曲 では作曲者に報告・了承を得ることも可能だろうが、アマチュア音楽愛好家にそのようなことを義務付け、しかも実践されていない法律は おかしい。この権利について思うのは創作者が「権利」として異を申し立てたり、利用・改変を拒否できるということは正しいと思うが、一度公開したものにやみくもに規制を かけてはいけないのではないかということです。異議申立ては権利者がすべきで公開されたメロディーなど自由に使えなければ死蔵させる手助けをしているようなものです。 現行法規では旋律・メロディについては厳密には作曲者しか演奏してはいけないことになりかねないし(許諾が必要という制度)、許可なくして他者の演奏を許さないという 創作者は100%いないと思うのだが、買被りかな。没後、50年も60年も後に開放するというのはそれを利用して利益をあげる行為にのみ課すべき義務でないかと。


10回目■(2005/07/13)
★著作権(2)★
現在、JASRAC(日本音楽著作権協会)さんの管理曲や著作権のあるデータ全てについて、記憶装置に保存することが かなり制限されています。個人や家族の範囲(?あいまいです)くらいが読み出せるのは良いが、第三者が見たり聴いたり出来ると 違法だそうです。個人の「知的財産権」を盾にファイルの共有やネットワーク社会の進歩を明らかに止める制度になっているようです。 どこの会社にでもあるようなLANに繋がっているPCではうかつにドライブやフォルダを共有にできません。気に入った画像や音楽を そこに保存しておくことは犯罪なのです。まいったなぁ。しかも「WEBフォルダとして公開する」などと云う機能も標準でごく普通にあるわけで、 だれでもが発信者になってしまいます。ネットワークPCの共有フォルダなど管理が甘いから、その手のデータを書きこまれたりした時はどちらの 罪になるのかなどとつい考えてしまいます。
筆者は随分前から3箇所の常時接続PCとダイアルアップ接続PCのデータをFTPでやりとりしていたのですが、もちろん本人のみIDとPWDで他者はクラッキングでもしない限り アクセス出来ないわけですが、もしそのIDとPWDを他人に教えたとたん、違法行為になるようです。 今、一番困っていることは大好きなメロディを演奏したいとき、DTMでしか出来ないのでデータは否応無しにハードデスクに保存されます。 そういう曲はほとんど著作権が残っていますから苛立たしい事このうえありません。当サイトのページはわりと思いつきで作っていたりしたもので リンク関係がややこしくなっていて、整理するのに四苦八苦しています。
協会に権利を委託されている職業音楽家の皆様はすくなくとも、出版や録音、放送、カラオケなどから相応の分配を得ているはずですし、自作品がより広く世に広まることを否とする方は 居ないと思うのですが。。。どうにも納得できない。オープン化の思想とかユビキタス社会などにはまるで反する潮流です。
そういえば、「個人情報保護法案」にもこういった後ろ向きの感じが随分あるように思っています。


9回目■(2005/07/09)
★著作権(1)★
わが国の法律で、作品の二次使用について司法の解釈は
-----------------------------------------------------
◇翻案権
 音楽を編曲したり、本を脚色したり、映画化するなどして二次的著作物を作る行為を「翻案」と呼び、著作権法27条は著作権者に 翻案権の独占を認めている。最高裁判例は「著作者の許諾無しで二次著作物の利用が許されるのは、本質的な特徴を感じさせない 態様に限られる」として、二次著作物から元の著作物が分かる場合、翻案権の侵害になるという見解を示している。 毎日新聞 2004年3月24日 東京夕刊からの引用
-----------------------------------------------------
ということになっています。音楽のなんたるかをまるで理解できない方々の決めそうな規則で、心底絶望的になりました。五線譜に書かれた だけの旋律に上記のごとく独占権を与え、作者以外の演奏や録音を禁止してしまってドウスルノ。しかもそれを委託管理する団体が アマチュアの音楽を楽しもうとする人々に「許諾」などという制度を作り課金しているのです。 従来も今も演奏家が既製の楽曲を放送局やクラブ、ステージなどで演奏する場合、また一般の人がカラオケで歌ったりする場合、 それぞれの形態に応じた規則で日本音楽著作権協会JASRACに使用料を納めているわけですが、いずれの場合も演奏者や 歌う人が作曲者に許可を得ることなど考えもしないことで、本来もしこの場所がなんら興行的商行為をしていないのであれば、 使用料も不要と考えて当然なのに音楽ではそうではありません。すくなくとも文学作品や文章についてはそれくらい緩やかな 法律となっています。世界中のPCがつながってアクセス可能な今日、権利者のある音楽の二次利用について捕捉不可能だから、 全て禁止あるいは許諾を求めよというのは愚かの一言につきる。 違法コピーをサーバーPCに置くというのはまるで別次元のことなのだが、どうもその辺に疎い方々の議論だったようで残念です。 願わくば、人類が授かったかけがいのない旋律を罪悪感なしに、演奏できるようにしてほしいものです。商用と非商用は はっきりと区別して創作者への正しい分配をすべきなのは当然です。CDが売れないとか、商用コンテンツがダメージを受ける などというのは、それだけの価値がないという市場原理に過ぎないことを肝に銘じてほしい。 現行法規が出来たころ(2001年)に「坂本龍一」さんなどがしきりに警鐘をあげていたようですが、肝心の協会評議委員や 文化庁のお役人さんに音楽文化とIT世界に通じている人物がいなかったようです。あぁーあ。。。
そういえば、下の記事に出ている孔子さまは仁徳の要件に「歌舞,音曲」を愛することといっていたけれど望むべくもないか。


8回目■(2005/06/25)
この頃、よく頭の中を論語の一節が断片的によぎります。20代過ぎてから興味本位や好奇心で読んだり聞いたりした 思想書やイデオロギー、宗教経典、哲学書などすべては半信半疑で接していたということで、なんら身についていないというか自分の考え方の規範になってはいないことを つくずく実感します。子供の頃、そろそろ「人間とは」などと考え出す頃にであう書物なり教師なり人というのがのちのち本人の人生や行動の最も重要な要素になるようです。 その良し悪しについてここで言及するつもりはありませんが、論語に限らず「少年よ大志を抱け!」とか「やせたソクラテスたれ。」とか解釈は人それぞれだと思いますが皆さんにも あるのではないでしょうか。今現在、自分が困っているいるのが「食べる事への罪悪感」で、生きるために食べるのは生物としての根幹をなすとは思うもののこの罪悪感が なにゆえ住着いたのか考えることしきりです。思うに子供の頃読んだ偉人伝などで、「清貧」とか「滅私」とか「仁」などというキーワードが根っこにあるようです。 「人はパンのみに生きるに在らず。」なんてのも。やっかいな問題で、半世紀以上たった今にしてまだ、うまく折り合いがついていなのです。 「分相応」というのも人間社会では重要なことですよね。見識に欠ける小人がなにかの事情で人の上に配置されたりすることがままありますが これは「犯罪」に匹敵する社会悪ですよね。当人がでなく、そのようにした人がです。もの作りをせず「言論の輩」といわれるような方々や「宗教者」も見識を問われるようなら特に恥じ入ってほしいものです。 もっともそのようなことに恥じ入るようなら、そのように後ろ指を差されることはないわけですが。そんな人にかぎって「大所高所から判断している」などとほざいていますが我が身可愛さが見え見えで、 こちらが気恥ずかしいでは済みません。

7回目■(2005/06/16)
うろ覚えで間違っているかもしれないが、中国の故事で「ただそれだけのこと!」という言葉での戒めがあり、 40代の頃から名人芸を目にする度にそれが頭をよぎります。 名にしおう弓の達人である将軍が弓場の外で見物している老人に向かって「どうだ。」と自慢したところ、老人は一言「ただそれだけのこと」と いった。将軍がそれはどういうことかと尋ねたところ、おもむろに携えていた油壷から油を杓子で汲み上げ、頭上高々と持ち上げて地面に立てた 針の穴ほどの口の銚子に一滴もこぼさず注ぎこみ、これと同じことだといったそうな。これは熟達の技を自ら誇るのは詮無い事(価値の無いこと)だと 諭しているらしいが、とても共感を覚えます。何事においても謙虚というのは「美徳」と思うが、さてはて世に並ぶもの無きような腕前になると それはなかなかに難しいようです。若干話しがそれるが、近年の言論の輩たちが繰り広げる「討論」「ディベート」といったさもしい振る舞いが大嫌いです。 訓練してその「技術」を磨くというのだからなにをかいわんや。品性の下落ということで真っ先に糾弾したいのは「人文・社会学」の分野でのこじつけたような ジャンルで「学問」ぶっている方々で、その薫陶を受け曲解する教育者は出るに至っては人類の敵ではないかと考える。 この記事は最近拾い読みした「性差」「ジェンダー論」といった類の一見哲学的論調をちりばめた無意味な文章の羅列に つい腹が立って書いてしまったものです。単に状況描写に過ぎない。 

6回目■(2005/06/13)
5回目の文章で「躁」状態がうんぬんと書いたのですが、自分が躁だ鬱だと書くことを一切やめることにしました。 読み返した時にとても嫌な感じがします。躁鬱をいいわけにするような人生を良しとしない。

5回目■(2005/06/04)
不謹慎(と考える人もいる)ながら。。。 年初からの治療の次のステップとして、内臓の超音波診断があった。驚いたのはそのお医者さんの素敵なことっていったら 例えようも無いくらいの女医さんでした。こういうことは、思っても口にしてはいけないことなのか不思議に感じているのですが うれしそうに自分が話すと、顔をひそめる人がいるんですよね。わからない。こちとら、そのことだけで1日、幸せいっぱいです。 人の幸せはこちらもうれしくなるほうなので、したり顔でいう「人の不幸は蜜の味」という感覚が理解できない。 で、容姿だけでなく、その声の良さに驚いたのです。「おぉーきく息を吸ってー。」「はぃ、とめて。」カチャ。の繰り返しの声が 音域でアルトの中音域、d4くらいの高さで、クリアな声というか楽器で云うところの「良い音色」に相当するといったところですが 一生涯で聞く人の声ベスト・スリーにランクインすると思いました。現代は日常周辺でも、ラジオ・TVでもきたない声や話し方が充満している せいで、よけい際立って聞えたのかも知れません。というわけで、突然と躁状態が始まった管理人なのでした。

4回目■(2005/06/03)
作るも作ったり。 サイト開設からまもなく1年が経とうとしています。コンテンツの総データ量が限りなく1GByteに近づきつつありバックアップもCD2枚必要です。 2年目からどうしようか、ただ今思案の真っ最中。

3回目■(2005/06/02)
世を儚んでいる人への送る言葉。
世の中、気に入らない人だらけだとしても
満員の通勤電車にうんざりしていても
仕事がつまんなくても
面白いことがなにもなくても
お金がなくても
なにがどうだとしても
いいじゃない。
一生かけても、100まで生きても必ずあるのが
行けない名所、読めない本、聴けない名曲、見れない名画、会えない人、出来ない経験、
あれもこれも。
うらやむべき人などどこにもいない。大なり小なりやりのこす。
自分の精神を信じて気高く生きたいね。
「音楽」この不思議な存在。



2回目■(2005/05/16)
今回は昔から気になってしょうがない言葉「狂狷」をWEBで探し出し、 自分の考え方を整理したのだが、この狂狷なる人というのは世の中にどのくらいの確率で存在するのだろうか。 なにごとか狭い世界に浸かって、とことん追求するわけで社会的には嫌われかねない存在と思われるがそう在りたいと願う個人は スポイルされてもしょうがないのだろうか。この世は偽善者/郷原だらけだとしても、皆が世の中を駄目にするほどの個々ではないことに思い至れば全体としてはそれで好いのではないか。 「狂狷」なる人は自分でそう思ったとたんに、<特権意識を持っていること>を他者に見抜かれるだろうし、識見確かな人は狂狷ではないと見るのではないだろうか。 狂狷などとは対極にある人というのは、そういう言葉とは無縁の世界に生きているか唾棄すべき存在として一顧だにしないのだろうか。 世の中狂狷の人だらけでは成り立たないというのも実感としてある。孔子さんは中庸が無理なら狂狷たれと教えたようだが、それはあくまで特Aクラスの上等な人間への教えだろうし、 思うに「狂狷」なる生きざまというのは人として望ましいこととしておしつけるようなことではなく、己のなかにそれを尊ぶ精神があれば十分という結論に達した。
文責:H_imagine59。 こちらはWEBからの引用。


1回目■(2005/04/30)

サイト開設後(2004/12〜2005/04)5ケ月間くらいのあいだのメモ帖。

文責:H_imagine59。

☆蛇足
☆蛇足

問い合わせは管理者まで。
CopyRight(C)2004 by Shinji Echigo All Rights Reserved.